『忌宮神社記述』

忌宮神社ご由緒

当社は、第14代仲哀天皇が九州の熊襲ご平定のために、西下、穴門(長門)豊浦宮を興して7年間政務をとられた旧址にある。
天皇はさらに筑紫(福岡県)の香椎に進出せられたが、1年にして崩御せられたので、神功皇宮は、喪を秘して重臣武内宿禰に御遺骸を奉じて豊浦宮に帰らしめ、現在の長府侍町土肥山に殯歛(仮埋葬)せられた。
そして皇宮はご解任中ながら熊襲を煽動していた新羅征討をご決行、ご凱旋ののち、天皇の御神霊を豊浦宮に鎮祭せられた。これが当社の起源である。そのあと、皇宮は皇子(のちの応神天皇)をご安産になった。
くだって聖武天皇の御代に神功皇宮を奉斎して「忌宮」ととなえ、さらに応神天皇をおまつりして「豊明宮」と称し、「豊浦宮」「忌宮」「豊明宮」と三殿別立の古社(延喜式内社)として栄えたが、中世の火災により中殿の忌宮に合祀したために「忌宮」の名を持って呼ばれるようになった。
古来、文武の神(勝運の神)として暦朝の尊崇厚く、また、安産の神として庶民の信仰を受けてきた。

蚕種渡来の地記念碑

仲哀天皇ご即位四年、秦の始皇帝の11世の孫功満王が入朝帰化し、天皇に蚕種を献上した。
中国から蚕種が初めて渡来した記念すべき土地であるので、昭和8年に全国各地からの奉賛金により、大阪城築城のために運ばれることになっていた巨石をもってこの碑が建てられた。
大日本蚕糸会会頭牧野忠篤氏が題字を揮毫。
碑文は、菊山山口県知事である。

鬼石と数方庭

豊浦宮に新羅のジンリンが熊襲を煽動して攻め寄せ、皇軍も奮戦したが、宮門は破られ、武将が相次いで討ち死にしていくさまをご覧になった仲哀天皇は大いに憤らせ給い、おん自ら弓矢を執って見事にジンリンを射倒された。
これを見た賊どもは色を失って退散した。
皇軍は歓喜のあまり矛をかざし旗を振ってジンリンの屍の周りを踊りまわったのが数方庭の起こりと伝えられる。
ジンリンの首を切ってその場に埋め、上に石を置いたが、ジンリンの顔が鬼に似ていたところから、これを「鬼石」と呼んだそれ以後、出陣、凱旋の時にはこの鬼石の周囲を踊りまわったと言われる。
毎年8月7日より13日まで毎夜、男子はオリ女子は切籠と呼ぶ灯籠をつるした笹竹をもって、鉦・太鼓に和して鬼石のまわりを踊り舞う。
天下の奇祭と呼ばれ勇壮かつ典雅な行事である。

御斎神事

毎年12月の夕刻より15日の早暁まで、境内は二重のしめ縄を張り巡らして緒人の参入を禁じ、侵食は斎戒沐浴(心身を清め)忌み(斎)籠りをし、古式に定められた神事を行う。
仲哀天皇・神功皇后が新羅ご征討に先立ち、七日七夜のあいだ忌籠りをされて天地の神々に戦勝を祈願され人民もまた大いに謹慎してひたすら神明のご加護を祈念したことから始まったという説と、神功皇后が仲哀天皇の喪を秘して新羅をご征討、ご帰還後天皇の喪を発して心霊の鎮座せられた時人民ははじめて天皇の崩御を知り、追悼して七日間喪に服したことが始まりと言う説があるが、大祭の前の厳粛な斎籠りで、御斎神事が明けて例祭が執り行われる。

満珠・干珠島(まんじゅ・かんじゅ)

両島は当社の飛び地境内で、神社所蔵の古図によれば沖にあるのを満珠・磯の近いのを干珠と呼ぶが、国の天然記念物の指定の際はその逆になっている。古くからの干満両論があり、合わせて豊浦の島ともいう。
日本書紀に「皇后、豊浦津に泊まります。この日如意の珠を海中に得たまふ。」と記されており、また、社伝によれば、神功皇后新羅ご凱旋のあと、霊験いやちこなる満珠・干珠なる如意の珠を海に収めたところ、島となったという。以来この島は神霊の憑り給う所として崇められ、神威を畏んで庶民は上陸を遠慮してきた。
その結果、島の林業は原始林の状態を温存してをり、大正15年史跡名勝天然記念物に指定された。
神功皇后にかかわる伝承のほか、源平合戦で義経がこの島影に兵船を伏せて待機していた史実もあり、また、風向佳麗なため古くより枕歌として知られている。

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